エルベの誓いとは?
エルベの誓いとは、第2次世界大戦末期、西と東からナチス打倒を目指し進撃してきたアメリカ軍とソ連軍の兵士が、エルベ川で取り交わした平和の誓いのことです。
それは1945年4月25日のこと。ベルリンから南方120キロのエルベ川湖畔のトルガウという小さな街で起ったことでした。エルベ川にかかる壊れた橋の上で、両軍の兵士が握手をする歴史的な瞬間の写真は、世界中に配信されます。
「鉄のカーテン」以前の冷戦がスタートする数年前でしたが、それでもアメリカ軍とソ連軍のそのシーンは歴史の教科書や小中学生用の歴史漫画にも掲載されるほど重要な事件として語り継がれています。
実は、この写真は翌日に撮影されたものだったのです。アメリカ軍の先遣隊とソ連軍の狙撃兵がトルガウ近郊で偶然遭遇します。両軍の司令部はこの偶然の出会いを、歴史的モニュメントとしようとして再演するように指示します。
1945年4月26日、アメリカ軍第69歩兵師団第273歩兵連隊の兵士とソ連軍58親衛狙撃兵師団173狙撃兵連隊の兵士が、大勢のカメラマンが見守る中、トルガウ市内の橋の上で握手を交わしたのでした。
トルガウ駅の構内にて
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エルベの誓い?その街の名はトルガウ。どこそこ?(@YouTube) |
どうやって行く?トルガウ
トルガウ(TORGAU)はザクゼン州にある小さな街です。ドイツの首都、ベルリンやザクゼン州の州都、ドレスデンからはトルガウへの直通列車はありません、ライプツィヒで乗り換えます。
ライプツィヒまでは、ベルリン、ドレスデンから共にドイツ新幹線(ICE)を使えば、約1時間15分で到着します。1915年に建てられた幅約300メートルというライプツィヒ中央駅は、ヨーロッパ最大の止め式駅で、23番線ホームまであります。
さらにライプツィヒ中央駅一番左側の地下にある1.2番線ホームから普通列車(RB)に乗り替え、約1時間弱ほどでトルガウの景色が見えてきます。ライプツィヒ~トルガウ間は1時間に2本の割合で列車が出ています。
ベルリン~ライプツィヒ間のICE内は、旅行者やビジネスマンの姿が目に付きます。一方、ライプツィヒからトルガウのローカル列車内は地元の人で賑わっていました。
ベルリン~トルガウ(ライプツィヒ経由 ICE使用):47ユーロ
ライプツィヒ駅
ライプツィヒ~トルガウ間のローカル線の風景
トルガウの街並み
トルガウ駅は、3番ホームまでしかない小さな駅です。駅舎内には売店のキヨスクとファーストフードを売っている軽食屋がありますが、時間帯によっては閉まっていることもあります。
駅前は左側がバス乗り場、右側にタクシー乗り場があります。街の中心のマルクト広場までは駅から歩いて行ける距離です。トルガウ駅に着いたら、まずマルクト広場を目指しましょう。
トルガウ駅
マルクト広場までの行き方
マルクト広場まで迷いやすいため、行き方をご紹介します。
トルガウ駅を出たらまっすぐ道が伸びているので、その道を5分ほど歩くと、フリードリッヒ広場(FRIEDRICHPLATZ)に着きます。歩いてきた道の広場に面する左角には、セントラルホテル(CENTRAL HOTERU)があります。もしトルガウに宿泊するなら、駅からのアクセスを考えてこのセントラルホテルが良いかも知れません(1泊52ユーロ)。
セントラルホテルの角を左側に進むと、右手にヴィッテンベルガー通りがあります。ヴィッテンベルガー通りの終着は交差点になっていて、左側のクア通りに入り、最初の曲がり角、ベッカー通りを右側に進めば、マルクト広場に到着します。フリードリッヒ広場からマルクト広場までは徒歩で7分ほど、駅からだと15分弱かかります。
マルクト広場まで行けば、出会いのモニュメント、ハルテンフエルス城、セント・マリーズ教会など、街の見どころはすぐ近くです。
駅からまっすぐ伸びる道
トルガウは小さな街
トルガウは中世のたたずまいを残した小さな街です。マルクト広場には、市庁舎が建っていて、ツーリストインフォメーションもあります。この市庁舎で米ソの兵士が初めて出会った日に、彼らはアメリカのチョコやソ連のウォッカを交換して歓談しました。
エルベ川沿いには、ザクゼン州で最も大きいと言われているハルテンフエルス城が建っています。第2次世界大戦中の「エルベの誓い」の現場と共に、歴史的に重要な遺産として、マルチン・ルターによって奉献されたセント・マリーズ教会があります。セント・マリーズ教会には、ルターの妻、カタリーナが埋葬されているのです。街の見どころは、1時間もあれば周ることができると思います。
市庁舎とマルクト広場
トルガウ市内の街並み
セント・マリーズ教会
歴史的瞬間の場所に行ってみよう
出会いのモニュメントと残っている橋の一部(アメリカ側)
ハルテンフエルス城の左側の坂道を下ると視界にエルベ川が飛び込んできます。城を背にした広場に「出会いのモニュメント」が建っています。そのモニュメントの中央には、
「1945年4月25日、この地でソ連赤軍と米軍が出会う。ファシスト・ドイツに勝利した赤軍と、英雄的な連合軍の勝利のために」
と、ロシア語で刻まれています。
そして、その下部分には小さく、後半の文言がドイツ語と英語で刻まれています。
トルガウは戦後、ソ連の影響下の東ドイツ領だったこともあり、ソ連の影響力が強いことがモニュメントからもわかります。
モニュメント
モニュメントの道を挟んだ反対側にもある記念碑
この出会いのモニュメントの10メートルほど先にある、堤防の一部が水面に出ているバルコニーがあります。このバルコニーが出会いの橋で、今では取り壊されてこうして一部だけ残っています。ベンチもありちょっとしたデートスポットにもなっていて、恋人達の愛の南京錠も架けられています。米ソの兵士が初めて出会った現場にあやかっているのでしょう。
出会いの橋の一部
愛?の南京錠
対岸にある碑と収容所(ソ連側)
現在、エルベ川に架かっている橋を歩き、対岸にも記念碑があります。3つの記念碑があり、それぞれの碑に3国の旗がなびいています(冬季は旗なし)。橋側からアメリカ、ドイツ、ロシアの順になります。その記念碑には1998年に建てられ、それぞれの国の言葉で、「エルベの魂」について刻まれています。
対岸の記念碑
また、記念碑があるエルベ川と反対側の遊歩道には、ナチス時代の陸軍刑務所跡のバラックがあります。1939年8月にこの場所に建てられ、1945年4月、ソ連軍が現れる直前まで使われていました。軍法会議で有罪になったドイツ軍兵士のみならず、ドイツ軍が占領していたヨーロッパ各国の捕虜も収容されていました。残忍な看守によって、暴力、虐待が日常茶飯事に行われていたそうです。
米ソの歴史的な出会いの場に、ナチス時代の負の遺産があるのも、ドイツ国内各地に強制収容所跡を残しているドイツらしいです。
刑務所跡
エルベ川の岸は、米ソの出会いがあった当時、ソ連軍により行われた遠隔射撃の犠牲者と思われるドイツ人の累々たる屍が横たわっていました。その屍を超えて米ソの兵士は出会ったのです。
対岸から見た城
「エルベの誓い」を訴え続けた米軍兵士、ポロウスキー
「エルベの誓い」の写真が世界中に配信される前日の4月25日、ソ連軍の狙撃兵と接触したアメリカ軍の先遣隊の兵士の1人に、ポロウスキーがいました。ポロウスキーの愛称はジョー、彼はドイツ語が話せたので、ドイツ語を話せるソ連兵と接触することができました。ポロウスキーの上官、コツビュー中尉が、エルベ川の一面に横たわっている屍を前に
「ジョー、犠牲となったこれら一般市民の前で、ロシア兵と確認しよう。今日が米ソ両国の歴史において大切な一日であることを、彼らに伝えてくれないか」
そこに居合わせた両国の兵士が、このようなことが2度と起らぬよう、各自が力を尽くそうと誓ったのでした。ほとんどの兵士は涙を浮かべ、互いに抱き合ったと言われています。
その後は、両軍兵士が入り乱れて、ビール、ウォッカ、ワインで乾杯し、ソ連兵がアメリカの曲を奏でて踊りが始まりました。その不思議で強烈な光景は、ポロウスキーの心を戦後もずっととらえてました。
一番右がポロウスキー
その後の米ソとポロウスキー
しかし、その平和の誓いも虚しく、戦後、米ソの対立はエスカレートしていきます。既に戦争中からアメリカ、イギリスなどの西側諸国とソ連では戦後の統治方法を巡って、亀裂が生じ始めていました。ソ連は、ナチスドイツの支配から解放した東欧の国々に共産主義政権の国家を樹立させていました。西側諸国も早く戦争を終結させ、戦後のソ連との対立に備えたかったのです。
米ソの代理戦争である朝鮮戦争、ベトナム戦争、ベルリンの壁の設置・・・日増しに深刻化する冷戦。そんな時代の中、ポロウスキーは戦後、シカゴでタクシー運転手をして生計を立てていました。彼は1人で冷戦への戦いを開始します。「エルベで誓い合った米退役軍人会」を組織して、元ソ連兵と交流をしたり、アメリカの議員、首脳、マスコミなどに手紙を書き続けます。
「エルベの誓いを忘れるな」、「核の脅威を取り除け」、「戦争をやめろ」
と訴え続け、出会いがあったトルガウで4月25日に演説をする年も何度かありました。
そんな活動を続けていましたが、まだ冷戦が終わらない1983年、66歳でポロウスキーは
志半ばにこの世を去ります。その棺は本人の遺志でトルガウ市内の墓地に眠っています。
ぜひ余裕があれば、「エルベの誓い」の写真には写っていない人物ですが、歴史的瞬間の意義を世間に訴え続けたポロウスキーの墓に足を運んでみましょう。
ポロウスキーの墓へのアクセス
ポロウスキーの墓は、町の中心部と反対の北側にトルガウ市内の公営墓地にあります。 墓地自体は、駅のすぐ裏ですが、駅から徒歩で15分ほどかかります。駅からのアクセスを紹介します。
タクシー乗り場がある駅の右手を歩きます。ナウンドルファー通り(NAUDORFER Straβe)を歩いていくと、乗用車が行き交う、ヴァルシャウアー通り(WARCHAUER Straβe)に出ます。
その通りの陸橋となっている線路の上を越えて、2番目の通り、ルードヴィヒ=フォイエルバッハ通り(LUDWIG-FUERBOCH-STR)(信号機がある最初の交差点)を右折すると、ドミニッチャー通り(DOMMITZSCHER Straβe)にぶつかります。そこを右折して4番目にある通りベールヴィンケル通り(BARWINKEL Straβe)を左に曲がると公営墓地があります。
そこにポロウスキーは眠っています。
墓地の入口
墓地に入って、最初の交差点(大きな十字架があります)を右折して、1番目の道を右折したところにポロウスキーのお墓があります。
「1945年4月25日、トルガウで第2次世界大戦に参加した米ソ共にエルベの誓いとなる」
と、英語とドイツ語で刻まれていて、その中欧には手と手が握り合っているイラストが掘られています。
ポロウスキーの墓
トルガウは理念
「トルガウは地図上の単なる街ではない。トルガウは一つの理念なのだ」
と、1961年4月25日のトルガウの記念式典で、ポロウスキーは演説します。 その4ヵ月後の8月、ベルリンでは東西を分断する壁の建設が始まりました。その壁は ポロウスキーが亡くなってから、6年後の1989年まで無くなることはありませんでした。
現代のベルリン市内には、ベルリンの壁跡や博物館が数多くあり、観光客もたくさん訪れています。ドイツには分断されていた時代の遺産ばかりでなく、戦争中に東西が一つになった瞬間の現場もあります。ぜひベルリン観光のついでに時間があれば、日帰りでトルガウも訪れてみてください。
マルクト広場
参考文献
母と子でみる エルベの誓い 早乙女勝元 著 草の根出版会
今回のトルガウ取材、記事の執筆にはこの本を参考にしました。 この本には詳細に記載されてなかった、モニュメントやポロウスキーのお墓へのアクセスも今回の記事では紹介しました。トルガウを訪れる際は、ぜひこの記事とこの本を参考にしていただければ幸いです。