第二次世界大戦が勃発。その時スイスは?
1933年にドイツでヒトラーが政権を握ると、ドイツは隣国のチェコスロバキアのズデーテン地方、オーストリアなどドイツ民族が住んでいる地域や国を次々に併合していきます。
首都のベルン、スイスで一番の大都市チューリッヒを始めとする、スイスの中央部はドイツ語圏になるので、スイスはドイツに対して警戒を強めていました。
1939年8月、ドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が結ばれ、ヨーロッパで戦争が起こるのは時間の問題になりました。1939年8月30日、スイス政府は安全と中立を守るために臨時の議会を開きます。
そこでの選挙によって、平時の際は空ポストになっているスイス軍総司令官にアンリ・ギザン将軍が選ばれました。そして有事の際は、スイスは中立を維持することを各国に通達します。
ついに9月1日、ドイツ軍がポーランドに進撃を開始して、第二次世界大戦が勃発します。それによって、ギザン将軍により国民の総動員令が発令。平時には1,000人前後の軍が数日で、兵力40万人以上の軍に変身します。
スイスの敵になる可能性があるのはナチスドイツだけではない
ドイツは東部のポーランドが屈服すると、今度は西部のフランスが標的になり、しばらく独仏国境で睨み合いが続きます。
スイスにはドイツ、イタリアなどの枢軸国が攻め込んでくる可能性だけでなく、敵国の連合国のフランスもスイスを経由してドイツへ攻め込む可能性もありました。
スイスに限らず中立国というのは、理屈上、交戦国双方と距離を置いた立場を取らなくてはいけません。実際、第二次世界大戦中、スイス上空を枢軸国、連合国の航空機が不法侵入することも何度もありました。その際、スイス空軍はどちら側に忖度することなく、迎撃していたのです。
ドイツ、イギリス側、双方と戦う可能性があったノルウェーについては、「【第59回】北欧戦跡の旅3:ヒトラーに屈しなかったノルウェー初代国王-その2」。北欧の中立国、スウェーデンに関しては、「【第61回】北欧戦跡の旅5:中立国だったスウェーデンの首都ストックホルム」をご参考ください。
史実では、ドイツ軍の主力は、オランダ、ベルギーを経由して進撃して、パリを占領したとされています。フランスが降伏する寸前、イタリアもドイツ側に立って、フランスへ宣戦布告。これにより、スイスの周りの国は全て枢軸国となり、囲まれてしまうことになります。
その状況にスイス国内は浮足立ち、都市部から山間部へ避難する人たちも現れ始めます。
抵抗か?妥協か?ギザン将軍が決断を下します。
ギザン将軍による「リュトリの誓い」
1940年7月25日、スイス建国の地リュトリの草原にスイス軍の高級参謀士官を招集します。
「我々は歴史の転換点にいる。スイスの存亡が問われている。私は国を守る義務と必要性があると信じ、それが効率よく実現できるとも信じている。」
スイス国民に抵抗する意思を示した瞬間でした。
スイス建国の地でもあり、第二次世界大戦中にはスイスの意思を宣言した、スイスの歴史にとって神聖なリュトリの草原を紹介します。
スイスの建国の地でもあるリュトリの草原
リュトリはスイスの中央部に位置し、チューリッヒから列車で約1時間のルツェルンから船で行くことができます。フィアヴァルトシュテッター湖の西側に位置するルツェルンは、かつてスイスの首都として栄えた古都です。リュトリはフィアヴァルトシュテッター湖から続くウルナー湖の湖畔にあります。
ルツェルンからリュトリへは約2時間の船旅になります。フェリーは湖畔の街に停泊しながら進んでいきます。
フェリー乗り場は、ルツェルン駅からバスのロータリーを挟んだ反対側にあるので、列車でルツェルンに着いての乗り換えもスムーズです。フェリーが出発する時刻に合わせて、ルツェルンに到着するのも良いかもしれません。
乗船券はフェリー乗り場でも買えますが、フェリー内でも買えるので、時間がギリギリだったら飛び乗ってしまいましょう。ルツェルン~リュトリの往復切符は48スイスフラン(5,300円ほど)。
船の詳しい時刻は下記のサイトで確認をお願いします。シーズンによって運行本数が異なります。
イントロダクション
SVGフィアヴァルトシュテッター湖汽船会社
https://www.lakelucerne.ch
リュトリはフェリー乗り場から少し坂道を上がった所に、小高い丘があるだけの何の変哲もない場所です。
1291年8月1日、リュトリ草原に現代のスイス中部に当たる3つの州(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン)の代表者が集まり、不可侵の結束を交わします。この同盟が、スイスの始まりと言われています。坂の途中にその誓いをされたと言われる小さい広場があります。1940年7月25日、ギザン将軍がスイスの決意を誓った場所は、更に階段を上ったところにあるひらけた丘です。
とはいえ、スイス国旗が一本立っているだけの寂しい丘です(冬に行くと特にそう感じるのかもしれません)。リュトリの誓いに触れる記念碑や説明展示などは一切ありません。
スイスの建国の地であるリュトリは、夏期は社会見学やハイキング客で賑わい、年間10万人の訪問者がいるようですが、1月1日のお昼ごろリュトリに着いた時は、下船する乗客も筆者以外いませんでした。帰りの船が来るまでの約1時間半、スイスの神聖なる場所、リュトリを1人の日本人が独り占めしていたことになります。
夏期は、1軒だけスイスの伝統料理を出すレストランがオープンしますが、観光地化はせずに、スイス人の心のふるさとして、平和と安らぎを感じてもらうためにそのままの姿を残しておくようです。
スイス建国の地とはいえ、祖国の危機の時にわざわざこんな辺鄙な地を選ばずに、首都のベルンの連邦議事堂で、演説をした方が理にかなっていると、一見思えます。しかし、あえて神聖な場所を選んだということに、ギザン将軍は、本気の決意をスイス国民に伝える効果があったのではないかと、リュトリの丘に一人でたたずんで感じました。
そして、現場にはそのことを示すものは何も残していないことは、リュトリは世俗世界とは距離を置く神聖な場所だという表れなのでしょう。
ヒトラーも毎年、ミュンヘン一揆が行われた日には、一揆の出発地だったビアホールで、演説していました。ヨーロッパの人達は伝統的に、出来事が起こった日、場所に対して、日本人以上に特別な感情を持っているように、歴史散策をしていると感じます。だからこそ、ヨーロッパ中で歴史現場がそのまま残っていたり、記念碑が必ずあったりするのだと思います。
ミュンヘン一揆の出発地は、「【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その1~」をご参考ください。
【第83回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅2・中立政策を終戦まで守り抜く-その1
>【第83回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅2・中立政策を終戦まで守り抜く-その2