開戦の10分前に投弾されたトチェフ鉄橋
1939年9月1日、午前4時45分、グダンスク(ドイツ名、ダンツィヒ。本記事ではグダンスクと表記)のヴェルステルプラッテ半島の運河に、停泊中のドイツの戦艦、シュレヴィッチ・ホルシュタインが砲撃したことが、第二次世界大戦の開戦と言われています。
ヴェルステルプラッテ半島や開戦までの経緯を含めて、「【第28回】第二次世界大戦の火ぶたが切られた街、ポーランドのグダンスクを歩く」編をご参照ください。
しかし、実はその10分前、グダンスク近郊のトチェフという街でも軍事行動が行われていたのです。
1939年8月31日午後8時頃、開戦の正当化の口実を作るため、ナチスの親衛隊(SS)がポーランド兵に変装してグライヴィッツの放送局を襲撃(詳しくは、「開戦口実の為の偽装工作、グライヴィッツ放送局襲撃事件」編をご参照ください)。
9月1日午前1時頃、ポーランド国境には150万人の兵力が配置を終えて、いつでも攻撃できる体制を整えていました。ポーランド国内も開戦直前ではありましたが、8月30日には総動員令が出されドイツ軍と事を構える準備が整いつつありました。
午前4時35分、トチェフ(ドイツ名、ディルシャウ。本記事ではトチェフと表記)を流れるヴィスワ川に架かる鉄道鉄橋を3機のドイツ軍の爆撃機が爆撃します。
この鉄橋はグダンスクと当時ドイツ領の飛び地だった東プロセインとを結ぶ幹線上にあります。ドイツ軍にとって東プロセインに駐留する部隊への補給を確保する上で、橋の確保は最優先事項でした。一方、当然、ポーランド軍もそれを察知していました。開戦の場合、直ちに橋を爆破するために橋の土手に爆薬をしかけて構えていたのです。
実際には、ドイツ軍の爆撃機は土手の導火線を吹き飛ばすことができ、橋の破壊は免れたかに見えましたが、ポーランド軍の工兵部隊がいち早く修復して爆破することに成功します。
これはドイツ軍の明らかな軍事行動ですが、土手に爆弾を落としただけだったので、ポーランド側には開戦とは認識されませんでした。それまでも国境でドイツ軍とポーランド軍の小競り合いが何度か発生したことがあったため、その延長上の行動であると認識されたのです。そのため、10分後のヴェルステルプラッテ半島のポーランド守備隊への戦艦からの砲撃こそ、第二次世界大戦の幕開けの瞬間と認識されました。
しかし実際は、トチェフ鉄橋の奪い合いによって、両軍の軍事行動が行われたので、トチェフ鉄橋の攻防戦こそ、第二次世界大戦が始まった瞬間とも言えます。
グダンスクと東プロセインを結ぶ街、トチェフ
トチェフは、グダンスクの南東35kmに位置して、グダンスクから優等列車で約20分で着きます。首都ワルシャワからグダンスク間の幹線上にあり、ワルシャワ方面からグダンスクへ行く時、トチェフ鉄橋を列車に乗りながら渡ることを体験できます。
トチェフの街が歴史に登場したのは12世紀で、1772年の第一次ポーランド分割では、プロイセンに併合され、第一次世界大戦が終わるまでドイツ領の街となります。19世紀には東プロセインの中心都市ケーニヒスベルクとプロイセン東部鉄道が開発されると街は発展、ヴィスワ川の鉄橋も重要な役割を果たすようになります。現在も鉄道の操車場があり、トチェフは鉄道の要所となっています。
第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によって、ポーランド回廊に組み込まれてポーランド領となります。まさに第二次世界大戦の遠因となる地帯の一角を担うことになるのです。
トチェフを流れるポーランドの大河ヴィスワ川
トチェフの観光名所でもあるトチェフの鉄道橋の下を流れるヴィスワ川は、全長1,000km以上あるポーランドを南北に流れる最長の川です。水源はチェコやスロバキアとの国境付近の南部から蛇行してバルト海のグダンスク湾に注ぎます。
上流では、ポーランドのかつての首都であり、アウシュビッツ強制収容所訪問への起点となっているクラクフを流れ、中流では、首都のワルシャワ北方ではウクライナ、ベラルーシ方面からのブーク川と合流します。ブーク川は1941年6月22日、独ソ戦が開始された時の最初の激戦地となったブレスト要塞を囲んでいる川でもあります。
ヴィスワ川の支流ブーク川のブレスト要塞については、「【第29回】独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞」編をご参照ください。
ワルシャワに進撃してきた1939年のドイツ軍、1944年のソ連軍も南北に流れるヴィスワ川を境にポーランド側と対峙して、ヴィスワ川は戦局に影響を与える天然要塞になります。また、第一次世界大戦後に起こった、ポーランドのソ連からの独立戦争「ポーランド=ソビエト戦争」では、ポーランド側がワルシャワ周辺でソ連の赤軍を殲滅させて勝利を導いたことから、この戦いを「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれています。
ヴィスワ川は中世の頃からポーランドの主要貿易動脈の1つで、木材、塩などが輸送されていましたが、一番の主要品は穀物です。その大半は港町グダンスクを経由して輸出されていきました。そして、グダンスクはバルト海の貿易拠点として発展して、自治権を獲得していきます。ポーランドとドイツでは長年、グダンスクの奪い合いが続き、第二次世界大戦も当時、国際管理下だったグダンスクの領有を巡っていたことが発端でした。
ポーランドの「ポー」は平原を意味していると通り、国土の大多数が平地の国なので、何度も周辺諸国に侵略され、地図から消える歴史を繰り返してきました。そんなポーランドの人々にとってヴィスワ川は少なからず、外敵から守ってくれる唯一の天然要塞で、貿易、輸送ルートとしてポーランドの人々の生活を支えてきました。
ライン川やドナウ川のように、各国を流れる国際河川ではありませんが、ポーランドの三大都市ともいえるクラクフ、ワルシャワ、グダンスクを流れるヴィスワ川はポーランドの人々にとって、母なる川、父なる川と言えるのかもしれません。
トチェフはヴィスワ川上流のグダンスク湾から30kmほどの西岸に位置している街です。
トチェフ最大の観光名所となっているトチェフ鉄橋(MOSTY TCZEWSKIE)
トチェフ駅の駅前を真っすぐ進み最初の交差点を右に進み(グダンスカ通り)、鉄道が下に通る橋を渡った先の交差点を右に曲がり(1マヤ通り)、再び鉄道が下に通る橋を渡ると左手にヴィスワ川とトチェフ鉄橋に着きます(駅から徒歩15分ほど)。
筆者が訪れた時は、元旦の午前中ということもあり、霧がかかり、人気も少ない幻想的な光景が広がっていましたが、気候の良い時期はたくさんの観光客、地元の人々で賑わっていると思います。
この場所こそがまさに、第二次世界大戦で最初に軍事行動が行われた場所です。
トチェフ鉄橋の道路橋は1857年に完成、1890年に鉄道橋が完成しました。当時は世界最長の橋でした。第二次世界大戦の開戦時にポーランド軍によって爆破され翌年再建、終戦間近の1945年、今度はドイツ軍によって迫りくるソ連軍の進撃を妨げるために爆破されてしまいます。現在の鉄橋は戦後再建されたものになります。
現在は鉄道橋の隣に歩道橋がありますが、技術的な問題がありトチェフ側にまで到達しておらず、建設が中断されています。
開戦直前、爆撃隊の隊員が当時運行されていた、ポーランド回廊を通過するベルリンからケーニヒスブルク(現ロシアのカリーニングラード)の列車に乗車。トチェフ鉄橋を渡り、トチェフ側の土手に配置されていた爆薬の導火線の位置を目視で確認します。
1939年9月1日、明朝、筆者がトチェフを訪れた時のように霧で覆われていたトチェフ。トチェフから飛行時間約10分弱、鉄道でも1時間~1時間半の距離にある、トチェフの対岸東方の旧東プロセインだったエルブロング(当時のドイツ名、エルビング)から各機4個の爆弾をかかえたドイツ軍の爆撃機3機が飛び立ち、このトチェフ鉄橋の土手に全ての爆弾を投下します。その瞬間こそが第二次世界大戦の幕開けでした。
トチェフ鉄橋周辺の動画です。
関連動画 |
第二次世界大戦で初めて投弾された場所① トチェフ鉄橋(@YouTube) |
旧東プロセインへ向かって、トチェフ鉄橋の進行方向右側の動画です。
関連動画 |
第二次世界大戦で初めて投弾された場所② トチェフ鉄橋、グダンスク→マールブルク方面撮影(@YouTube) |
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