ヒトラー初の訪問、1938年5月9日
レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ・・・・
などの芸術家を生み、14世紀にルネッサンス文化が花開いた都、フィレンツェ。
ルネッサンスとは、ギリシャ、ローマ時代の文化を再興する運動のことです。今まで支配していた神を中心としていた世界観から、人間中心の世界観へと導いたのです。
大富豪の金融業者メディナ家やローマ教皇によって資金が提供され、フィレンツェは数多くの芸術家を生み出します。
フィレンツェの繁栄は、15世紀の大航海時代が幕開けするまで続くのです。
現代でもルネッサンス時代の建築物が数多く残るフィレンツェには、世界中から押し寄せる観光客を魅了し続けています。
20世紀には、あのアドフル・ヒトラーもフィレンツェを訪れ、魅了されてドイツへ帰っていくのでした。その初めての訪問は、1938年5月9日でした。
ヒトラーが降り立った16番線ホーム
1938年3月、生まれた祖国、オーストリアを併合したヒトラーは、隣国、チェコスロバキアを虎視眈々と狙っていました。
そのチェコスロバキアへ侵攻する際、ヨーロッパで唯一の友好国、ムッソリーニのイタリアに承認を得る必要があるとヒトラーは考えました。
5月、ヒトラーは側近と共に特別列車を手配して、ブレンネル峠を越えて、イタリアへやってきます。ローマ、ナポリなどイタリアの各都市を訪問し、最後の訪問地がフィレンツェでした。
イタリア国境に入った瞬間から各地で、大歓迎されて迎えられたヒトラーご一行様。フィレンツェには、5月9日、列車でやってきます。ヒトラー達の特別列車は、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅の16番ホームに入線したのでした。
その16番線は今でもサンタ・マリア・ノヴェッラ駅にあります。
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅は、ヨーロッパの大都市で御馴染みの止め式ターミナル駅です。正面の駅舎を背にして、マクドナルド、カフェ、コインロッカー、交番などがある一番右側が16番線ホームになります。
要人の訪問ということで、ホームの幅が一番広い16番線を選んだのではないかと思います。
左側の1番線ホームも他のホームより幅が広いですが、駅舎からみて、やや奥にあるので、要人を迎えるホームとしては少し格が落ちます。
ヒトラーのフィレンツェ観光
大歓迎の中、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に降り立ったヒトラーは、ムッソリーニの案内でフィレンツェ観光に出かけます。
ヒトラーが観光した場所は、今の観光地と全く変わらないので、ガイドブックを片手に周ることができます。
まず、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から近い順に紹介します。
1)ヴェッキオ宮殿
かつてフィレンツェ共和国政庁舎だったゴシック建築の建物です。ウッフィツィ美術館と同じシニュリーア広場にあります。ドゥオーモから歩いて5分ほどです。
2)ウッフィツィ美術館
メディナ家の財力を集めたルネッサンスの美術品がほぼ全てあると言われています。 芸術家を目指していたヒトラーは、ウッフィツィ美術館では絵画を熱心に見学します。そのおかげで、4時間もウッフィツィ美術館過ごして、案内役のムッソリーニを苛立たせたのです。
現代でも見学者は予約を入れてから訪れる人が多い人気の美術館です。
3)ヴェッキオ橋
アルノ川に架かるフィレンツェ最古の橋。ヴェッキオ橋の上にある、宝石店などが並ぶヴァザーリの回廊は、ウッフィツィ美術館とピッティ宮を結ぶ通路として建設されました。
第2次世界大戦の末期、ドイツ軍が撤退する時、フィレンツェのアレル川に架かる橋で唯一爆破させずに残った橋です。
ヒトラーの命令によって爆破は回避された、在フィレンツェドイツ領事が守った、などという美談の話がありますが、実際の真相は分かりません。
ピッティ宮は、ルネッサンス様式のトスカーナ大公の宮殿として使われました。現在、宮殿内部は美術館や博物館として公開されています。
ピッティ宮の広い庭園で、世界遺産にも登録されたボーボリ庭園は、ピッティ宮と共通券で見学することができます。
5)ミケランジェロ広場
フィレンツェの街並みが一望できるミケランジェロ広場は、観光客で賑わっています。 ヒトラーもここからフィレンツェの美しさに感嘆したと想像に難くありません。
ヒトラーのイタリア訪問の旅程に、フィレンツェを入れたムッソリーニの狙いは、イタリアの文化遺産をヒトラーにアピールするためとも言われています。
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅からミケランジェロ広場まで、宮殿の中などに入って見学をしなければ、40分ほど歩くと着くことができます。
ヒトラー2度目の訪問、1940年10月28日
ヒトラーは第2次世界大戦が始まってから、再びフィレンツェを訪れるのです。
1940年夏、イギリス本土爆撃が上手くいかなったヒトラーは、中立国のスペインやヴィシーフランスの首脳と対英参戦を要請のために周りますが、芳しい回答をもらうことができませんでした。
詳しくは「バスクの旅3 スペインを破滅から救った舞台となった国境駅 前編」
失意の中、ドイツへ戻る途中のヒトラーに、イタリアがギリシャに侵攻するという情報が入ってきます。イギリスを屈服させることに失敗し、戦線を拡大することに消極的になっていたヒトラーは、イタリアの行動に激怒します。ムッソリーニと会談するためにイタリアへ向かったのです。
雨のフィレンツェでヒトラー激怒
1940年10月28日、午前11時、雨のフィレンツェ。
ヒトラーは、特別列車「アメリカ号」で華やかに飾られたサンタ・マリア・ノヴェッラ駅の16番ホームに降り立ちます。
上機嫌でヒトラーを出迎えるムッソリーニ。
ムッソリーニ「総統!我々は順調に進撃を続けておりますぞ!」
ムッソリーニは、ヒトラーがフィレンツェに着く10月28日に合わせて、イタリア軍にギリシャを攻撃させたのです。
2人は1938年でも訪れたピッティ宮で長時間会談します。ヒトラーはスペイン、フランスでの会談の模様を話し、終始、自制心を抑え、ムッソリーニの話を聞いていたと言われています。
ムッソリーニの内心は・・・
「ヒトラーはいつも俺を出し抜きやがって、今度は俺がヒトラーを出し抜いてやる。」
ヒトラーの内心は・・・
「ソ連侵攻を考えているので、イタリアは余計な敵を作りやがって。」
イタリア軍の威勢が良かったのは、最初の1週間だけで、イギリス・ギリシャ連合軍の反撃に合い、出発地点のアルバニアまで押し返されてしまいます。
1940年の夏から秋にかけて、イギリス本土爆撃の失敗、スペイン、フランスのドイツ側での参戦工作の失敗、イタリア軍の勝手な行動。
この頃からヒトラーの計算は狂い始めてきたのです。
第2次世界大戦中のフィレンツェ
1943年8月、イタリアが降伏した以降、フィレンツェはドイツ軍とイタリアファシストの支配下に置かれます。南部から徐々に攻める連合軍は、ドイツ軍がアルノ川沿いに築いていたアルノ線という防衛線を突破します。
連合軍が進入してきたフィレンツェでは、ドイツ軍、イタリアファシストが激しい抵抗をみせます。1944年8月11日午前6時、ヴェッキオ宮の鐘が鳴響いたのを合図に市民も蜂起、泥沼の市街戦の末、連合軍によってフィレンツェは解放されます。
その後は終戦間際までゴシック線という防衛線で睨み合いが続いたのです。
ボローニャ方面からフィレンツェへ列車で向かうと、ほとんどトンネルの中を通ります。この付近は山岳地帯なのがわかります。ドイツ軍はその地形を利用して、ゴシック線を形成したのです。
連合軍も5ヶ月間、ゴシック線を突破できずイタリアの全土解放は、戦争終結直前まで実現しませんでした。