【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その2|トピックスファロー

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2024年1月31日
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その2

ヒトラーは、1941年6月に独ソ戦が勃発して以降、ドイツの首都ベルリンを離れます。そして、戦場に近い東部の東プロセイン領の街の郊外、森の中にある作戦指令本営に籠り、戦争の指揮を取りました。そこはヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれて、その跡地は現在も残っています。

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博物館として観光スポットとなっているヴォルフスシャンツェ

ケントシンからヴォルフスシャンツェへはタクシー

ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)はケントシンから北東、10kmほどのゲルリッツの森と呼ばれる場所にあります。そこまで行くための公共交通機関は、タクシーしかありません。筆者は宿泊していた「Hotel Wanda」でタクシーを手配してもらって行きました。片道約15分、50ゾロチ(2,000円弱ほど)です。帰りも行きのタクシーに迎えの時間を伝えて予約しておくのが無難だと思います。

ヴォルフスシャンツェに着く直前の風景ヴォルフスシャンツェに着く直前の風景

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【真冬の雪の中潜入レポ①】各国独ソ戦を指揮したヒトラーの総統本営、ヴォルフスシャンツェ、狼の巣 〜現地までの風景〜(@YouTube)

写真、動画を見てもお分かりのように、森林に覆われていて、工作物の隠ぺいがしやすそうな場所です。ケントシンの東側には、マズリア湖沼地滞が広がり、ソ連軍の侵攻や連合軍の空襲にも防衛しやすい環境だったので、この地はヒトラーが独ソ戦を指揮するために適していた場所でした。当時、周囲は鉄条網と地雷原で囲まれていましたが、現在は平和な自然環境が広がっています。

ヴォルフスシャンツェ周辺の地図ヴォルフスシャンツェ周辺の地図

筆者が訪れたのは冬。雪景色も幻想的で、モスクワやスターリングラードでのドイツ軍を悩ませた冬の戦いのイメージを重ねることができますが、春から夏にかけて訪れたら、緑が綺麗なところなんだろうなと思います。ヴォルフスシャンツェでは、戦争遺跡の見学だけでなく、地元の若い学生を対象に自然教室としても活用されています。

ヴォルフスシャンツェの入口付近ヴォルフスシャンツェの入口付近

ヒトラーの秘書などの証言によると、森林に囲まれ沼地も近いということで、ヤブ蚊の襲来に悩まされたようです。また、防空対策のため、陽光を遮断していたため、夏でも暖房設備が必要なほど過酷な環境でした。

現在、ヴォルフスシャンツェは博物館として公開されて、ケントシン観光、最大のスポットとなっています。筆者が訪れたのは冬だったので、見学客はあまり多くありませんでしたが、ほとんどの人は自家用車で見学に来ているようでした。

イントロダクション

ヴォルフスシャンツェ
入場料金:15ゾロチ(約600円弱)

ヴォルフスシャンツェの入口兼チケット売り場ヴォルフスシャンツェの入口兼チケット売り場

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当初の楽観ムードから、徐々に暗雲が立ちこめるヴォルフスシャンツェ

ヒトラー
「我々がドアを一蹴するだけで、朽ち果てた建物はバラバラに崩れ落ちるだろう。」

独ソ戦が始まった直後からヴォルフスシャンツェ入りをしたヒトラーは、ソ連戦は冬前に勝負がつくと楽観視していたので、側近たちも数ヶ月の滞在だろうと思っていました。

しかし、ある国防軍の側近がこう漏らします。

「どんな作戦も初めは目に見えない部屋のドアを開けることになる。その暗い部屋には何が隠れているかわからない。」

その側近の懸念通り、ヒトラーは3年半近く、ヴォルフスシャンツェを起点に過ごすことになるのです。

独ソ戦の開戦日から激戦となったブレスト要塞跡独ソ戦の開戦日から激戦となったブレスト要塞跡。
ソ連軍が長く持ちこたえてドイツ軍を苦しめた。

独ソ戦、開戦当初はドイツ軍の目まぐるしい快進撃のため、ヴォルフスシャンツェ内も明るい雰囲気でした。特に大した仕事がなかった女性秘書たちが、「ケーキを食べることくらいしか仕事がなく、太ってしまい、旦那に離婚を言い渡されてしまいます。」とヒトラーにこぼしたり、ヤブ蚊の苦情を言うと、ヒトラーも「それはゲーリング(空軍のトップ)の仕事だ。」と冗談を言ったりする余裕がありました。

7月頃、ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンは、副官にヒトラーとその側近たちとの食卓での会話をヒトラー本人や周りの側近に気づかれないようにメモしておくように指示します。偉大な人物の歴史の記録として、こうした会話も後世に残そうとしたからです。戦後、それは皮肉にも実現化され、「ヒトラーのテーブルトーク」として出版され、ヒトラー研究の重要な資料となっています。その多くがこのヴォルフスシャンツェで記録されました。

ヒトラーのテーブルトークヒトラーのテーブルトーク

しかし、絶望的な状況でもソ連軍兵士の命を顧みない驚異的な抵抗、予想をはるかに上回るソ連軍の軍事力、例年より早く訪れたロシアの冬などの影響で次第に戦況が悪化していきます。ヒトラーも体調を崩すことが多くなり、精神的にもヒステリーを起こして、国防軍の高級将校と亀裂が生じてくるのでした。

1941年12月のモスクワ攻撃とん挫、1942年暮れから1943年年初にかけてのスターリングラードでの大敗北などを、筆者が訪れた時のように寒い雪のヴォルフスシャンツェでヒトラーは迎えることになったのです。また、日本軍の真珠湾攻撃の報告を聞いたのもヴォルフスシャンツェでした。

ヒトラーの一貫した独ソ戦での一貫した方針は、「戦線が崩れかけても総崩れを防ぐために撤退禁止、戦線死守」でした。形勢が悪くなり、撤退を要求する将軍たちを罵倒して、次々とクビにし、ヒトラー自ら陸軍総司令官として戦線を直接指揮することもありました。

そして、その軍部のヒトラーへの不信感が、ヴォルフスシャンツェでもっとも有名なヒトラー暗殺未遂事件へとつながっていくのです。

スターリングラードでのパウルス将軍の指令室の再現スターリングラードでのパウルス将軍の指令室の再現。
ヒトラーはヴォルフスシャンツェからパウルスの降伏を徹底拒否した。

「【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ」編は5部構成です。

<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その1
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その2
>【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その3
>【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4
>【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その5

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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