ヒトラーとワーグナー
ヒトラーは、10代の青年時代、故郷のオーストリアのリンツの劇場で、親友グビツェクとワーグナーのオペラ「リエンツェ」を鑑賞して以来、終生、ワーグナーの虜になります。
「リエンツェ」は、主人公のリエンツィが、ローマの腐敗した政治に不満を募らせた民衆を救うため、ローマの護民官になって貴族に立ち向かうが、民衆の裏切りにあい、絶命するストーリー。
ヒトラーとグビツェクは鑑賞後、寒い冬の夜を2人で歩きました。その間、ヒトラーは一言も口を聞かなかったといいます。しかし、丘の上に来た時、急にヒトラーはグビツェクの両手を強く握りました。その時のヒトラーの表情は、完全に陶酔と興奮状態だったそうです。
そして、民衆を導くための特別な使命という壮大なビジョンを語り始めます。オペラ「リエンツェ」との出会いは、芸術家を目指していたヒトラーが、政治の世界に身を投じ始めるきっかけの一つだったのかもしれません。
リヒャルト・ワーグナーは、1813年生まれで、ヒトラーが生まれる6年前の1883年に亡くなります。19世紀のドイツを代表する音楽家で、音楽に演劇的な要素を取り入れる「楽劇」というスタイルを生み出しました。ワーグナーはバイエルン州のバイロイトに定住して、自らの作品だけを演奏する祝祭歌劇場を作ります。
毎年、夏シーズンにここで、バイロイト音楽祭が開催されるようになり、現代でも続いています。ヒトラーも政治家になってから毎年のようにバイロイトを訪れていました。
筆者もバイロイトに向ってみました。
ヒトラーの時代については、「【第32回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 少年時代編」をご参照ください。
バイロイトへの行き方
バイロイトはニュルンベルクから北に約70kmに位置して、ローカル列車で1時間程度です。1時間に1本程度でバイロイトへ行く列車が出ているので、ニュルンベルクから充分、日帰りできます。
ヒトラー自身もバイロイトを訪問する際は基本的に鉄道を使っていました。ヒトラーが初めてバイロイトを訪問したのは1923年といわれています。
毎年7月から8月にかけて行われる音楽祭では、総計約10万人が訪れて賑わいますが、筆者が訪問したのは10月だったので、観光客の姿はそこまで多くありませんでした。
バイロイトは日本のガイドブックにも掲載される有名な街で、日本人観光客が訪問するのは、主に音楽祭が開かれる祝祭歌劇場とワーグナーの私邸だった博物館です。ヒトラー紀行もまさにその2つが主な目的地になります。
バイロイト中央駅は街の中心部から少し離れていて、駅から見て左側の南側が街の中心部でワーグナーの私邸などがあり、右側に北側に祝祭歌劇場があります。そのため、この2つを訪れる際は、駅に一度戻る形になります。
まずは駅の前の道を左側に進み、ワーグナーの私邸に向います。
世界遺産に登録された辺境伯歌劇場
駅前の道をおよそ10分程度、徒歩でひたすら進むと、左右に延びるカナル通りに突き当たります。少し左側に進み、角の緩やかな坂道(オペラ通り)になっているところに辺境伯歌劇場があります。
バイトロイトを取材中、筆者はたまたまバイロイト在住40年の日本人の女性とお話しする機会がありました。
その方曰く、
「この辺境拍歌劇場こそ、バイロイトの宝。日本人観光客の人達は、ワーグナーの私邸と祝祭歌劇場には足を運ぶけど、ここは通り過ぎてしまうだけだから大変残念だわ。」
フリードリヒ大王2世の姉、ヴィルヘルミーネの希望で建てられ、1748年に完成。場内は華麗なバロック式で世界遺産にも登録されています。
残念ながら、筆者は訪問することができませんでしたが、今度訪れる機会があったら中まで入ってみようと思います。
ヒトラーストーカー?というテーマを徹底的に絞った旅をしていると、知られていない美しい街や風景に出くわすことができる一方で、意外と有名な歴史遺産は通り過ぎてしまうだけのことも多いです。
「【第88回】ヒトラーの台頭を防げなかった政治家、ヒンデンブルクとパーペン-その2」でも紹介しましたが、ポツダムには4回訪問しても、観光の最大のスポットであり、教科書の巻頭カラーにも掲載されているフリードリヒ大王2世の墓がある、サンスーシ宮殿には一度も訪問していません。
こうやって毎回、今度の機会と言い訳をすることになってしまいますが、辺境伯歌劇場の隣にはヒトラーが演説したホテルが営業しています。と、こんな感じでヒトラーストーカーの目線を発揮してしまうのでした。
ヒトラーが度々訪れたワーグナー一家の私邸とワーグナーの墓
辺境伯歌劇場の隣にあるホテル・ゴールデナー・アンカーは、首相になる前のヒトラーが初めてバイロイトを訪問した時、演説と宿泊をした場所です。ヒトラーの演説を聞くために、ホテルの前にはたくさんの群衆で埋め尽くされていたようです。
隣の辺境伯歌劇場が完成した同時期の1753年に創業した、バイロイトの歴史あるホテルです。現在もレストランを兼ねた4つ星ホテルとして営業しています。
ヒトラーは首相後もバイロイト音楽祭のたびに足を運び、その時にもこのホテルを利用していたと思われます。
そして、ヒトラーがお忍びで通っていたワーグナー家の私邸、ハウス・ヴァーンフリートはすぐ近くにあります。戦争末期、バイロイトを襲った連合軍の爆撃で全壊しますが、戦後復興して、現在はワーグナー博物館として公開されています。
ヒトラーを熱心に支持した、ワーグナーの息子の嫁、ヴィニフレート
当時、ヒトラーの熱烈な支持者だった、ワーグナーの息子、ジークフリートの夫人であるヴィニフレートがヒトラーを頻繁に私邸に招き入れたそうです。ナチスの思想に共感していたヴィニフレートは、1923年に初めてヒトラーと会って以来、熱烈な心棒者となり、ジークフリートに語ります。
「彼はドイツの救世主となる運命を背負っていると思いませんか?」
その年、ミュンヘン一揆で投獄されたヒトラーに原稿用紙やインクを差し入れして、「我が闘争」の執筆を支援していたほどで、ヒトラーとの恋仲も噂されたくらいでした。
ヒトラーはその後もワーグナーの私邸に何度も足を運び、くつろいだ時間を過ごします。特にヴィニフレートの子供たちがヒトラーになつき、色々な冒険話や過去の戦争の体験談などを語ってくれるヒトラーおじさんが彼らは大好きでした。
戦争が始まる1ヶ月前、親友グビツェクと訪れたワーグナーの墓
ハウス・ヴァーンフリートの建物のすぐ裏側には、ワーグナーの墓があります。裏側は庭園になっており、墓は縦3m、横2mの大理石で木立に囲まれた中にひっそりとあります。
水面下ではスターリンやイギリスとの交渉、軍備を進めていた、第二次世界大戦が始まる1ヶ月前の1939年8月3日。ヒトラーは前年のオーストリア凱旋で再開して以来、グビツェクと再開します。
バイロイトの音楽祭にグビツェクを招待したヒトラーは、グビツェクが持参したヒトラーのブロマイド、1枚1枚にサインをして、2人でワーグナーの墓に詣でます。
青年時代、リンツの夜に2人で熱く語ったワーグナー。彼らは今、そのワーグナーの墓の前にいます。
「最も尊敬するべき場所で、君と再会できたことは大変喜ばしいことだ。」
2人は感激して、夢のようなひと時を過ごしたのでしょう。
関連動画 |
現地の風景 ヒトラーが頻繁に招かれていたワーグナー家の私邸とワーグナーの墓(@YouTube) |
音楽祭が開催されるバイロイトの祝祭歌劇場
続いて、駅まで引き返して、ワーグナーの音楽祭が開かれる祝祭歌劇場に足を伸ばしてみます。
駅の前の道をひたすら右側に歩くと左右に樹木が茂る坂道になり、祝祭歌劇場(リヒャルト・ワーグナー・フェストシュピールハウス)が見えてきます。
ハウス・ヴァーンフリートから歩くと20分以上かかるかもしれません。音楽祭のシーズン以外は、内部のガイドツアーを行っています。特に予約が必要ではないようで、1日に何度かあるガイドツアー開始時間に集まれば、ガイドツアーに参加できます。
祝祭歌劇場の定員はおよそ2,000席。コロナ渦で2020年の音楽祭は中止、2021年は1席間隔を空けてソーシャルディスタンで開催されたようです。2022年は通常開催に戻りましたが、2021年に参加した人はソーシャルディスタンスだったため大変快適だったみたいです。ある意味、貴重な年だったのかもしれません。
筆者は、ドイツの偉大な音楽家ワーグナーの聖地で、ヒトラーやナチスに関する碑などはないと思っていましたが、劇場前にあるワーグナーゆかりの人物を紹介する展示に、ナチス時代のことがしっかり触れられていました。
本来ならドイツの音楽のふるさとともいえるバイロイトで、ヒトラーやナチスの歴史は隠したいのが本音でしょうが、しっかり歴史を直視するドイツの姿勢を垣間見えました。
心酔したワーグナーの作品と同じ運命を共にする
バイロイト音楽祭は1876年に開催され、以降は両世界大戦中とその直後以外は中止となることなく続いている歴史と伝統がある音楽祭です。ヒトラーも首相になってからは毎年、音楽祭に参加しています。
しかし、ワーグナーのオペラ「リエンツェ」の主人公のようにドイツの命運を背負うことになったヒトラーにとって、バイロイトにいても休まる時間はありません。
1934年、オーストリアのドルフス首相が暗殺された時は、その一報をバイロイトで聞き、1936年の音楽祭では、直前にスペイン内戦勃発。フランコの使者とバイロイトで会見します。
戦争が始まっても、戦争末期の1944年まで音楽祭は続けられました。戦争が始まってからは、傷痍軍人や功績を上げた軍人も招待されます。
ヒトラー自身は開戦後の1940年の音楽祭が生涯最後の出席になり、また、グビツェクと最期に再開した時でもありました。
「戦争が私の最良の年月を奪っていく、建築をやりたい、しかし、私にはやらなければいけないことがある、私以外にだれがやるのだ。」
と、親友に語ります。
ドイツ民族のため、国のためという使命感でヒトラーは立ち上がり戦いましたが、最期はその国民がヒトラーに応えることができずに、ヒトラーが描いた千年帝国は日の目をみることができませんでした。
ヒトラーは死の直前、遺言で、
「この国民はまだ私の理念を理解し遂行できる水準に達してなかったのだ・・・」
市民に裏切られ、絶命したワーグナーのオペラ「リエンツェ」の主人公のごとく、ヒトラーも同じ運命を辿ったのでした。
関連動画 |
現地リポートの動画です。 ワーグナーに傾倒していたヒトラーが毎年訪れていたバイロイトの音楽祭の劇場(@YouTube) |
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
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