ヒトラーが生涯最悪の一日と語った、長いナイフの夜とは?
1933年、首相になりドイツの政権を取ったヒトラーは、世界に向けてヴェルサイユ条約の破棄を高らかに主張します。それは第一次世界大戦で失った土地の回復、再軍備を意味していました。10月には国際連盟を脱退します。
ヨーロッパに再び戦雲の不穏な空気が流れ始めます。ヒトラーは来るべき戦争に備えて、軍備を強化する必要に迫られたのでした。
ナチスには、突撃隊(SA)という、ナチス創成期から武力をちらつかせ、ヒトラーのビアホールでの演説の際の警備やミュンヘン一揆の護衛をしていた組織がありました。しかし、ヒトラーは、素行が悪く成り上がり者が多数を占める突撃隊より、プロイセン時代からの伝統と実力がある国防軍に軍備の統率を一任しようと考えます。
それに猛反発したのが突撃隊の幕僚長、エルンスト・レームでした。レームはナチス創成期からの党員で、ヒトラーとは古くからの盟友です。レームは自らが手塩にかけて育てた突撃隊を正規の軍隊に格上げしようと考えていました。自分を父親のように募る突撃隊の隊員たちに花を持たせてあげたかったのです。
レームは自分の考えと反するヒトラーの動きを察知し、「第二革命」を叫び、ヒトラーとぶつかります。
ヒトラーは首相でしたが、高齢だった当時のドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの後継者の地位を手に入れ、ドイツを完全に掌握しようと目論んでいました。突撃隊の力を縮小して、国防軍を正規軍として認めるなら、ヒトラーをヒンデンブルクの後継者に認める言質を国防軍から得ていたのでした。
そのためヒトラーは、突撃隊を野放しにしておくことができなくなります。そして、「長いナイフの夜」と呼ばれる粛清が始まったのです。
もちろんヒトラーも、政治活動の初期から活動を支えてくれた突撃隊や盟友のレームに対する情もありました。しかし、非情な決断を下さなくてはならなかったのです。
レームが逮捕された南ドイツの保養地、バードヴィースゼーのホテル
1934年6月30日、午前4時、ヒトラーと側近を乗せた飛行機が、ミュンヘン郊外の空港に着陸します。
突撃隊の幹部やミュンヘンから南の保養地で静養しているレームを一網打尽にするために、ミュンヘンへやってきたのでした。
ヒトラーは現場に居合わせた者に、
「今日は人生で最悪の日になる」
と語ります。
ヒトラー一行は、ミュンヘン市内から車で、レームが滞在しているバードヴィースゼー(Bad Wiesee)のホテル、ハンセルバウアー(Hanselbauer)に向かいます。
ハンセルバウアーに到着したのは午前7時前、レームの寝こみを襲います。ヒトラーが右手に拳銃を持って一番乗りでホテルの中に入っていき、レームの部屋に押しかけます。
「エルンスト、おまえを逮捕する。」
寝ぼけていたレームは状況が読み込めませんでしたが、すぐに服を着ることを命じられます。その後も各部屋にいた突撃隊の幹部をまとめて逮捕します。
2台のバスに囚人たちを乗せ、ヒトラーの車を先頭にミュンヘンへ向けて出発します。
レーム逮捕後のヒトラーの行動
9時30分頃、ヒトラー一行はミュンヘンのナチス党の本部、褐色の家に着きます。レームをはじめ囚人たちもそこに一時的に抑留されます。
現在の褐色の家については、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅8 ~開戦への道編~」をご参照ください。
ヒトラーは、ベルリンにいるプロイセン首相兼内相のヘルマン・ゲーリングに電話して、ベルリン地区での突撃隊の粛清を開始するように合図を送ります。
ゲーリングは、突撃隊のみだけでなく、ナチスに都合が悪い人物も暗殺リストに入れていました。この混乱に乗じて一緒に消そうとしたのです。
元ナチス党員でヒトラーと対立して去ったグレゴール・シュトラッサーや前首相でヒトラーと首相の座を争ったクルト・フォン・シュライヒャーなど、100人ほどの政府要人、突撃隊幹部が暗殺されます。
ミュンヘンでもシュターデルハイム刑務所で、次々と突撃隊の処刑が始まっていました。
しかし、ヒトラーはレームの処刑に関しては判断を下せないまま、その日の夜にベルリンへ向かいます。14年間共にしてきた同士の命を奪うことは、ためらっていたのです。
午後10時頃、ベルリンのテンペルホーフ空港に到着したヒトラーは、ゲーリングやゲシュタポ長官代理のハインリヒ・ヒムラーなど、ベルリンでの粛清を主導した幹部の出迎えを受けます。ヒトラーの顔は青ざめ、頬がむくんでいたといわれています。
テンペルホーフ空港については、「1945年、独ソのベルリン最終決戦の跡地を散策」をご参照ください。
そこでゲーリングは処刑リストをヒトラーに見せて、1日の成果を報告します。しかし、突撃隊のトップであるレームの処刑がされていないことに、ゲーリングやヒムラーは当惑します。
「総統、反乱を起こそうとした首謀者のレームを生かしたら、何のために多くの要人を殺したのか分からなくなります。国民や軍も納得しないでしょう。」
ゲーリングやヒムラーに説得されて、ついにヒトラーはレームの処刑を決意します。
シュターデルハイム刑務所での死刑宣告
7月1日、午後6時、シュターデルハイム刑務所に収監されていたレームは、初夏の暑さの中、レームは上半身裸で汗をびっしょりかいていました。
独房に親衛隊の隊員が現れます。親衛隊の隊員は、「あなたに死刑宣告が下された」と告げ、レームにピストルを渡します。
ヒトラーはレームに自決の機会を与えたのでした。ヒトラーは後にロンメル将軍を処刑する際も、本人の自決を求めます。それは親しかった人間に対するヒトラーのなにがしらの愛情が込められた死刑宣告でした。
ロンメル将軍については「ドイツ軍の英雄、「砂漠の狐」と呼ばれたロンメル将軍の最期の地」をご参照ください。
15分待っても銃声が聞こえてきません。親衛隊の隊員が独房に戻り、レームに向かって2発の銃声を放ちます。
レームの最期の言葉は、「総統閣下…..」でした。
これが「長いナイフの夜」といわれる事件の顛末です。
シュターデルハイム刑務所へのアクセスについては、今後掲載予定の「白バラ事件のハンス兄弟の痕跡を巡る編(仮)」で紹介します。
長いナイフの夜以後
長いナイフの夜の事件以降、突撃隊は規模を縮小して400万人を超える隊員は120万人まで減ります。役割も青年に対する軍事訓練などに制限され、補助的な役割しか与えられなくなりました。
ヒトラーは、突撃隊を粛清したことによって国防軍からの信頼を得ます。突撃隊は素行が悪く、国民からも評判が悪かったこともあり、国民も概ね好意的にこの事件を見ていました。
高齢だったヒンデンブルク大統領が8月2日に亡くなります。ヒトラーは国民投票の末、その後を受け継ぎ、首相と兼任して大統領の地位を得ます。
名実ともにアドルフ・ヒトラーは「総統(フューチャー)」になったのです。
ヒトラーは陸海空軍に忠誠を誓わせます。ドイツ国防軍はすべてヒトラーのものになります。
そして、国内の政治を掌握して、軍も手に入れたヒトラーは、外国にその手を伸ばし始めるのです。
9月にニュルンベルクで過去最大規模の党大会が開かれ、千年帝国が宣言された
レームたちが逮捕されたホテル・ハンセルバウアーを辿る
現在でもレーム達が逮捕されたバードヴィースゼーのホテルの建物、ハンセルバウアーは残っています。バードヴィースゼーへは、ミュンヘンからはローカル列車とバスを乗り継いで行くことができます。
ミュンヘン中央駅のバイエルンオーバーランド鉄道(BOB)というドイツの私鉄でグムンド(Gmund)という駅まで行きます。バイエルンオーバーランド鉄道は、ミュンヘン中央駅の右端奥にある目立たない場所にホームがある30番線代から出発します。
ミュンヘンからは1時間ほどで着き、1時間1本の割合で往復しています(片道11.6ユーロ 2019年1月)。切符はドイツ国鉄の自動販売機、窓口でも購入することができます。
グムンドの駅からはバスに乗って向かいます。バス停は駅前にあり、ハンセルバウアーの最寄りの停留所は、「Bad Wiesee Andorian-stoop-str」になり、10分前後で到着します(片道2.9ユーロ 2019年1月現在)。
グムンドからは8個目の停留所になりますが、乗り降りする乗客がいないと通過してしまうので、バスの中の電光表示案内でしっかり確認することをオススメします。
バス停付近は保養地、バードヴィースゼーの中心部で、多くのペンションがあります。筆者が訪れた時は、冬だったのでほとんどのペンションはクローズしているようでした。
降りたバス停の近くには交差点があり、そこから左側に伸びるボーデンシュナイド通り(BondenschneidStraße)の終点(その先はテーガーン湖)にハンセルバウアーはあります。
バス停から歩いて数分の距離です。プールを兼ね備えたスパホテル(Hotel lederer am See)として営業していましたが、2018年9月に閉鎖され、取り壊しの工事が始まっている最中でした(2019年1月)。レームが捕まった部屋も残っていたそうですが、見学できなくなってしまったことは残念です。建物の外観は見ることができました。
ヒトラーがレーム達を逮捕するために訪れたのは、初夏の土曜日の早朝でした。当時は教会のミサの鐘が鳴り、テーガーン湖の森林が美しく見える朝だったはずです。当時から保養地で静かなバードヴィースゼーは、現在でもその面影を残しています。長年の旧友だったレームを逮捕したヒトラーには、バードヴィースゼーの美しさも灰色に映ったはずです。
そんなバードヴィースゼーから想像もつかないような惨事がその後、ミュンヘン、ベルリンで起こるのです。その戦端がこの静かな保養地だったのは皮肉です。
当時はレーム達を迎えに来たバスなどが列を作っていたと思われる
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
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