【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その2~|トピックスファロー

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2019年1月24日
【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その2~

ドイツ労働者党(後のナチス)に入党したヒトラー。1920年代、ミュンヘンを舞台に次々と行動を起こしますが、それは早急であり、一度失敗して停滞してしまうことに…。1930年代に政権を取るまでミュンヘンでひっそりと政治活動をしていました。その痕跡を巡りたいと思います。

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ヒトラー一行が行進したミュンヘン一揆のルート

オデオン広場周辺

旧王宮前のマックス・ジョセフ広場を通り、旧王宮の左側のレジデンツ通り(ResidenzStraße)を進むと、ゴールのオデオン広場が見えてきます。 しかし、ヒトラーたちはオデオン広場に着くことができません。なぜなら、広場の直前は警官たちによって、道が封鎖されていたからです。

マックス・ジョセフ広場マックス・ジョセフ広場

オデオン広場の将軍卿が見えてくる。銃撃戦があったのはこの通りオデオン広場の将軍卿が見えてくる。銃撃戦があったのはこの通り

警官はヒトラーやルーデンドルフ将軍を目掛けて発砲を開始します。ヒトラーは地面に引き倒されて肩を脱臼しますが、突撃隊の隊員に助けられ脱出に成功しました。一方、ルーデンドルフ将軍は逮捕されてしまいます。
ナチスの党員は16名(14名、17名など諸説あり)、警官側は3名が亡くなりました。

ヒトラーはその時、左脇の小道によろけて倒れたといいます。おそらくその小道は、オデオン広場の手前にあるレジデンツ通りからヴィスカーディ通り(Viscardigasse)付近だと思われます。

ヒトラーが負傷したと思われる付近。真ん中に見えるのがヴィスカーディ通りヒトラーが負傷したと思われる付近。真ん中に見えるのがヴィスカーディ通り

現在のヴィスカーディ通り

ヴィスカーディ通りには金で塗られている部分があります。ヒトラーが政権を取ってから、オデオン広場には、このミュンヘン一揆のモニュメントがありました。そのため、ミュンヘン市民は、オデオン広場に入るためには、検問しているナチスの親衛隊にナチス式敬礼を強要されたのです。その敬礼をしたくない市民が通ったオデオン広場への抜け道が、金で塗られている部分になります。

金色に塗られた抜け道金色に塗られた抜け道

オデオン広場。左側からヒトラー一行がやってきたオデオン広場。左側からヒトラー一行がやってきた

劇画「ヒットラー」(ちくま文庫)から転載
劇画「ヒットラー」(ちくま文庫)から転載

ビュルガーブロイケラー酒場(現在はガイタイク文化センター)からオデオン広場までヒトラー一行は1時間かかったそうですが、ガイタイク文化センターからオデオン広場までは徒歩で25分くらいです。当時のヒトラー一行は、イザール門を潜ったあたりから、群衆が溢れ、マリエン広場で立ち往生したため時間がかかったのではないかと思います。

ガイタイク文化センターの最寄駅は、SバーンのRosenheim platz。ヒルトン側の出口を上がると目の前がガイタイク文化センターです。

ミュンヘン一揆に失敗後、ランツベルク刑務所に収容されるヒトラー

ミュンヘン一揆に失敗したヒトラーは、隠れていた家で見つかり逮捕されます。しかし、裁判では巧みな弁明で禁固5年という軽い刑が言い渡され、実際には1年未満で出所します。

ヒトラーが抑留されたランツベルク刑務所の行き方は、「ナチスドイツの総統、アドルフ・ヒトラーゆかりの地を巡る」編を参照してください。

ランツベルク刑務所ランツベルク刑務所

ランツベルグ刑務所に抑留されている時、ヒトラーの政治理念が描かれた「我が闘争」を口述執筆します。「我が闘争」は後に、ドイツ国民の必読の書となります。

出所後はナチスを再建し、活動を開始しますが、世の中はヒトラーやナチスのことを忘れていきます。理由は、ドイツの経済政策が上手く軌道に乗り始め、景気も回復したことにあります。政治面でも国際連盟に加盟するなど、他国と協調路線を取り始めます。

インフレも解消され、生活が安定してくると、束の間の平和な時代がやってきます。国民は第一次世界大戦中の苦しさ、敗戦の屈辱という辛い時代を忘れたかったのです。ヒトラーの民族主義、ユダヤ人排除など、挑発的で過激な主張は受け入れにくくなってきたのでした。

その結果、ミュンヘン一揆以降の1920年代、ヒトラーは政治家として不毛な時期を過ごしたといえます。

1920年代のヒトラーのゆかりの場所

ミュンヘン一揆のルートの近くに1920年代のヒトラーのゆかりの場所があるので、軽く紹介します。

我が闘争を出版した出版社があった建物

ヒトラーの著書、「我が闘争」を出版した出版社があった建物が、ミュンヘン一揆のルート近くにあります。イザール門の手前右手にある、トラムが通っているティールシュ通りを進んで、2番目の左手の道の角にあります。

住所:
ThierschStraße 11

【第66回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅3 ~ヒトラーの躍進編~」で紹介した、ヒトラーが1920年から住んでいた家は、そのティールシュ通りをそのまま進んだところにあります。

住所:
ThierschStraße 41

ヒトラーが演説していたカフェ

イザール門の左側には、ティールシュ通りと反対方面に、1926年に6回、1929年に1回、演説したカフェがあります。

住所:
Reichenbachstrasse 13

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同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化

同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。

歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。

ヒトラー 野望の地図帳

ヒトラー 野望の地図帳
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社     
価格 :1,400円(税抜) 

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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