3年10ヶ月ぶり、3回目の山陰地方
筆者は森高千里さんのライブで鳥取県を訪れました。鳥取県に来るのは約3年10ヶ月ぶりです。その時も森高千里さんのライブが米子市で行われる予定でしたが、当時はまだコロナ禍で、前日の緊急非常事態宣言により開催が中止となってしまいました。

翌日は岡山県倉敷市でライブ(このライブは無事開催)があったため、飛行機やホテルをキャンセルするのももったいなかったのもありますし、隣県の島根県に森高ファンの先輩の方もいるので、この時は米子に行き、出雲大社など島根県を車で案内してもらいました。
島根県の名物、出雲そば
島根城その時以来の鳥取県となり、中止になった時と同じ米子市の会場でライブが開催されました。今回は島根県の方と一緒に、ライブなどを楽しむことができました。
ライブは日曜の夜に開催され、翌日の月曜日は有休をとって、境港を散策することにしました。
12年ぶりに再訪する、境港、水木しげるロード
米子市から境港線(鬼太郎列車)で境港に向かいます。境港自体は2回目の訪問です。

2013年、当時の思い出
前回の訪問は12年前の2013年。鳥取旅行で鳥取市の砂丘と一緒に、漁港を訪れています。
当時は水木しげる先生がまだご存命で、時々テレビにも出演されていて、水木しげるロードもよく取り上げられていました。
筆者も水木しげるロード、水木しげる記念館に行ったり、鬼太郎などの妖怪を作るお店に入って見学したりした思い出があります。お店はテレビで何度か紹介されていて、水木先生も足繁く通っていたお店です。店のご主人は、水木先生は1日3回来ることもあると、おっしゃっていました。

それ以外には水木しげる記念館(後述)、その先にある水木しげる先生の生家、境港の郊外にある、水木先生が幼少の頃、一日中見入っていたという、地獄極楽図の絵がある正福寺にも足を運びました。水木先生の原点と言われている絵です。
訪問した時は法事の最中でしたが、終わってから自由に見学ができると、お寺の方に快く言ってくださったのが印象に残っています。
正福寺
公式HP:https://www.shofukuji.info/access.html
当時、本シリーズ(ヨーロッパで訪問したい世界大戦の戦争遺跡シリーズ)の取材を始めた頃でしたが、やはり筆者自身が影響を受けた人物の生家やゆかりの地は、実際に自分の目で見てみたいという特性があったのだと思います。
2回目の訪問・水木しげるロードと記念館
そして今回、12年ぶりの訪問となった境港。改めて本記事を書くための再訪となります。
今回は月曜日ということもあり、人の数も落ち着いていて、昨今騒がれているインバウンドもほとんど見かけませんでした。島根県在住の森高ファンの先輩の話だと、山陰地方は関西などからの国内観光客は目立っても、外国人観光客はあまり目立たないそうです。

また、森高千里さん自身も昨日のライブ前に境港を訪れており、水木しげるロードを堪能していたようです。ライブでもその話をされていて、インスタでもたくさん写真をアップしていました。
森高さんも訪れた目玉のおやじの街灯水木しげるロードは相変わらず隅から隅まで、水木しげるワールド全開です。水木しげるロードの終わりには、水木しげる記念館があります。
水木しげる記念館は昨今リニューアルされたそうで、前回訪問した時と変わったそうです。

今回の訪問時は、前編で触れた水木先生の「昭和史」に焦点を当てた、大昭和史展が開催されていて、小学生の時、熟読していた昭和史の描写がたくさん展示されていました。


昭和史に限らず、様々な戦記を執筆されている水木先生は、「戦争反対、平和!」と、声高らかに作品の中で訴えることはあまりありませんが、その作品のストーリーを通じて、戦争に対する不条理を表現しています。
水木先生の部隊が全滅して、命からがらジャングルを彷徨い、奇跡的に本隊に合流します。
その時、上官に言われた言葉が、
「お前の部隊、全滅したんだろ?なんでお前も死ななかったんだ?」
生き延びて褒められると思っていた、水木先生は、これを聞いてガッカリしたそうです。ただ同僚の仲間達はよく無事だったと喜んでくれたそうです。
記念館に展示されていた、昭和史の描写で、小学生だった筆者も何度も読んだところですが、大人になって読むと、改めて感じるところがあります。

当時は戦争に行って死ぬことこそ、正義という時代でした。その空気に水木先生は、芸術家や哲学家も、一生懸命、何かを突き詰めたとしても、戦争はそれを一瞬で否定してしまう、絶望感を当時、書き残しています。
戦後の日本人にもこのマインドが生き続けたことは否定できません。昭和から平成にかけての日本でも会社に忠誠を尽くして、長時間残業、休日出勤、社内外の接待、ゴルフに時間を捧げてきたのが日本社会でした。また学校では教師による体罰、暴力、部活動の理不尽な厳しい上下関係が存在していました。
昨今でこそ、ライフワークバランスが叫ばれるようになりましたが、それが無くなったかといえば、まだまだその幻想が現代日本社会にも存在していると、筆者は感じます。

水木先生の教え、体力をつけることと寝ることと
以前の記事でも触れましたが、筆者はコロナ禍以降、歩くことが趣味になっています。
今回も境港から米子鬼太郎空港まで直接距離約5kmを歩くことにしました。正確に言うと、境港の港湾地区を見学したかったので、港湾経由で8kmほど、約2時間かけて歩きました。
線路沿いを歩く
境港のターミナル歩くことの最大のメリットは健康によく、体力がつくことにあります。
水木しげる記念館では、水木先生のこんな言葉が紹介されていました。
困難に直面し、それを撃破するのは、体力だと思っている。

片腕を失いながらも、激戦地で生き延びた水木先生、最終的に運命を分けたのは体力だったのでしょう。
筆者は気軽にできて、金もかからない、体力をつける運動こそ、歩くことだと思います。
また、93歳まで生きていた水木先生の長生きの秘訣は寝ることだったそうです。
藤子・F・不二雄、手塚治虫といったマンガ界の巨匠は、60代で亡くなっています。水木先生曰く、彼らは寝る間も惜しんでマンガを描いていたからだそうです。水木先生は休日、家族全員で目覚まし時計をかけずに寝るだけ寝ることにしていたそうです。
筆者も仕事がある平日はどうしても睡眠時間が減ってしまいますが、休日は目覚ましをかけないで寝るだけ寝るようにしています。
水木先生は生き方を通じた、筆者の師匠なのかもしれません。
鳥取名物、牛骨<【番外編】境港の水木しげるロードを散策 ~水木しげると筆者~-前編
【番外編】境港の水木しげるロードを散策 ~ロードと記念館~-後編

